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『マン・レイ展』についてのまとめ
2010年7月14日(水)〜9月13日(月)/ 国立新美術館

コンテンツ

■マン・レイ作品のコレクションについて
 今回の出品作品はすべて、マン・レイ・コレクションから選ばれたもの。マン・レイ・コレクションとは、ニューヨーク州ロングアイランドにある自動車修理工場内のマン・レイ財団の巨大金庫に収蔵されているコレクションのこと。4,000点以上のドローイング、写真、絵画、オブジェからなる。
 ちなみに最も多くのマン・レイ作品を持つのは、パリのポンピドゥ・センターである。(展覧会図録 p.9 )

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■マン・レイが重要視したもの
 彼にとって重要なのは、モノとしての作品ではなく、それを生みだすためのアイディアや概念であった。だからこそ彼は多くの作品を制作し、記録用の写真を撮り、その後はそれを紛失してしまったり、時には自らの手で破壊することすらあったのだ。作品に至るまでのアイディアや概念は、その「記録」の中にある。ひとつのオリジナル作品よりも、大量に複製することで、そのアイディアや概念をより広く流布することが可能となる。こういった考えは、20世紀美術におけるマン・レイの大きな功績のひとつである。(展覧会図録 p.10 )

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■無頓着、しかし無関心ではなく
 本展に用いられている英文のタイトル、Unconcerned But Not Indifferent(「無頓着、しかし無関心ではなく」)という言葉は、マン・レイ作品のひとつからとられたものであり、同時に、ジュリエット・マン・レイがふたりの墓の墓碑銘に選んだ言葉でもある。この言葉は、マン・レイと作品 / 鑑賞者 / そして彼が残したものとの複雑な関係性を表わしている。(展覧会図録 p.11 )

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■複製物の価値の発見
 マン・レイはのちにこう説明している。「私は画家として出発した。自分で描いたカンヴァスを写真に撮ることによって、私は白黒の複製物の価値を発見した。作品そのものを破壊して、複写のみを保存する時がきたのだ」。(展覧会図録 p.14 )

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■捨てられた《ランプシェード》
 壊れて捨てられていたランプシェードを見つけたマン・レイは、それを広げてスタジオの天井に吊るした。螺旋を描いてぶら下がる形を気に入り、ある日、彼はそれを作品として展覧会に出品した。ところが、ごみと間違われ清掃員に捨てられてしまったのだ。そこでマン・レイはランプシェードの展開図を描き、それを白く塗った金属板から切り抜いて新たな作品を作った。こうした行為は、実際に完成された作品それ自体よりも、その基となったアイディアこそが重要と考えるマン・レイの信念を示した早い例である。彼は1921年に展覧会場から作品《贈り物》が盗まれた際や、1957年に展示中の《破壊されるべきオブジェ》が壊された時にも、すぐさま新たに同様の作品を制作している。(展覧会図録 p.15 )

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■ソラリゼーションの発見
 ミラー(リー・ミラー:1929年頃から3年間一緒に暮らした女性。マン・レイの弟子でもある)はまた、のちにマン・レイがその名声を得ることになる、19世紀の写真技術の再発見にあたって、偶然の立役者でもあった。印画紙を現像途中で露光させるとサバティエ効果、すなわちソラリゼーションが起こり、ネガの未露光部分に明暗の反転した図像が現われる。ミラーによれば、暗室の中で何かが彼女の足元を横切り、慌てふためいた彼女がとっさに電気をつけ、再び消したことによってこの効果が発見されたのだという。(中略)後年、この手法の発見過程について述べた時、マン・レイはリー・ミラーの関わりについて触れることはしなかった。(展覧会図録 p.17 )

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■マン・レイに対する辛辣な評価
 1934年には、マン・レイ初の重要なモノグラム『フォトグラフス 1920-1934』が出版された。(中略)彼はこの写真集の成功を期待していたのだが、ルイス・マンフォードが「カメラでふつうに写真を撮ること以外ならなんでもやってのける、やたらに器用な技術屋」と述べた批評記事が『ニューヨーカー』誌に掲載された時、その希望は無惨にも打ち砕かれた。(展覧会図録 p.18 )

 ずいぶん厳しい評価のように聞こえますが、私にはかなり的を射た評価という気がします。アイデアや概念を重視していたマン・レイの行動を客観的に見れば、きっとルイス・マンフォードが書いたように見えたことでしょう。なぜならマン・レイは誰もが撮るように普通に写真を撮ることは、極力避けていたはずですし、いつも新しい表現を探していたはずだからです。

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■写真は芸術ではない
 同年(1936年)、マン・レイは12点の写真を所収したポートフォリオ、『写真は芸術ではない』も出版した。その序文にアンドレ・ブルトンがマン・レイを評して「魔法のランタンの頭をもった男」と書いている。この出版は、写真という媒体に対するフラストレーションを徐々に増大させていったマン・レイの心情を公に宣言するものだった。彼は、写真は芸術というよりはむしろ「機械」であると述べている。(展覧会図録 p.19 )

 写真は芸術ではない……。マン・レイがどういう意味で言ったのか、気になるところです。

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■カリフォルニアは美しい牢獄
(戦争のためマン・レイは1940〜1951年にかけてアメリカのロサンゼルスで過ごします)
 カリフォルニアで作品を展覧する機会は多くあったが、画家として正当な評価を受けることはなかったのである。マン・レイがヨーロッパの美術界において重要な立場にあったことを知らないアメリカの批評家たちは、しばしば彼を模倣者と評した。妹に宛てた手紙にマン・レイは、「カリフォルニアは美しい牢獄だ」と綴っている。(展覧会図録 p.21 )

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■複製できる芸術
 マン・レイにとって重要だったのは、モノとしての作品ではなく、むしろその背景にあるアイディア、思想であった。だからこそ、彼のオブジェの多くは組み立てられ、写真に撮られた後で、破壊されたり紛失したりしたのである。芸術作品に対する思想とは記録の中に残すことができるものだという彼の考えは、この芸術家が20世紀美術に寄与した主たる功績のひとつと言えるだろう。(展覧会図録 p.22 )

 このマン・レイの芸術観とまったく正反対の考えを持つ人もいます。しかし私は「芸術とはこういうものだ」という絶対的な答えはどこにもないのだと考えています。時代によって、地域によって、世代によって、その他のいろいろな要素によって、芸術の概念は変わる。そんな柔軟性を持つのが芸術の特性だと思うからです。

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■《破壊されるべきオブジェ》の正しい楽しみ方
 作品のオリジナリティに関するマン・レイの考えが、最も明確にわかる例として《破壊されるべきオブジェ》を見てみよう。これはメトロノームの振り子に、写真から切り抜かれたリー・ミラー(一時期マン・レイの恋人だった女性)の眼が付けられた作品である。マン・レイによると、この作品の先駆となる作品は1923年に作成された。これを彼は《破壊のオブジェ》と名づけ、1932年に発行されたシュルレアリストたちの雑誌『ジス・クォーター』誌上で発表した。作品はドローイングで描かれ、そこには以下のような「指示書」が付けられている。「愛していたのにもう会えない人の写真から、眼を切り抜く。それをメトロノームの振り子に取り付け、好みのテンポになるように重りを調整する。忍耐の限度までそれを鳴らし続ける。金槌で狙いを定め、一撃でそれを破壊する」(展覧会図録 p.22 )

 う〜〜む、やってみたい。思わずそう思わずにはいられない卓越したアイデアです。

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■複製は技術者にまかせる
 この発見(カラー写真の色彩の輝度を保持しつつ、絵のような質も付け加える方法)による多少の稼ぎを期待したマン・レイは、数カ国のフィルム製造会社にこの技法で制作した写真を見せている。しかし、特許を取ることは難しいという理由で拒否されたのだ。「この経験も、」とマン・レイは語っている。「作画を続け、(中略)複製のことは技術者にまかせようという決意を強固なものにした」(展覧会図録 p.22 )

 少々意味不明。出典資料を当たる必要有りか。マン・レイ自伝 セルフ・ポートレイト

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■ナチュラル・ペインティングと呼ばれる一連の作品の制作方法
 木の板や段ボール紙の表面に、チューブから搾り出した絵具で厚い模様の層を作ったり、滴らせたりした上に、2枚目の板を乗せて押し当てると、無作為で、予想不可能な模様が生れる。反抗的で嘲笑的な究極のダダイスト的行為としてマン・レイは、制作の最後を、作品の上に自らが座って締めくくった。(展覧会図録 p.26 )

マン・レイのナチュラル・ペインティングの画像(部分)
マン・レイ作 無題(ナチュラル・ペインティング/部分)1958年 木に彩色

 「芸術は何でもあり」のいい見本。ただし、たとえば私がこれをやっても作品は紙くず同然だし、もっとまずいことに、かなりの確立でこいつは“バカ”だという烙印を押されてしまいます。

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■芸術作品の大量生産について
 1960年代と70年代に訪れた遅い成功は、彼の作品の市場を一挙に拡大させた。マン・レイは初期に制作した絵画やリトグラフを複製し、立体作品をマルティプルとして再生産した。「芸術作品」がもつアウラに対し常に懐疑的であったマン・レイにとって、自身の作品を大量生産することは魅力的な行為であった。彼にとって、オリジナル作品とその複製は、深く結び付いたものであったのだ。1点目の作品を制作するための必要なインスピレーションは、その複製によって、つまり、そのインスピレーションやアイディアが広く知られることで初めて有効なものとなると、マン・レイは主張している。(展覧会図録 p.26 )

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■マン・レイの「厳格な規律」
 (マン・レイの)「厳格な規律」は、フェルー街のスタジオ内に置かれた物の配置に関しても当てはまった。(マン・レイの自伝を著した)ボールドウィンによれば、「アトリエを訪問したある女性は、こんな思い出話をしている。マン・レイがちょっと部屋を出ているあいだに、オブジェを手に取って見たところ、部屋に戻ってきたマン・レイはすぐに置き場所の違いに気づき、その品物をもとの位置に戻したという」(展覧会図録 p.31 )

 多くの広告カメラマンと仕事をしたが、彼らは非常に多くの機材を取り扱うし、一度に数多くの写真を撮り、そのフィルムを管理しなければならない。したがって非常に几帳面である。

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■マン・レイが望んだものは得られたか?
 1921年、ルーマニア生まれの詩人トリスタン・ツァラの招きを受けて、パリの「サロン・ダダ国際展」に2点の写真作品を出品。これが、「写真家」マン・レイの名を世に知らしめることになる経歴の始まりであった。しかし後年、彼は写真家としての成功ではなく、画家として成功することに執着したのである。(展覧会図録 p.42 )

 残念ながらマン・レイを画家として認識している人はほとんどいないのではないだろうか。

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■写真による複製
 マン・レイは自らの制作の参考にするために、尊敬する芸術家たちの作品を撮影した写真も蒐集した。たとえばアンリ・ルソーの絵画を写した写真は、マン・レイが手綴じで1冊の本にし、死ぬまでパリのスタジオにある木製のキャビネットに保管していた。そこにはピカソやマックス・エルンストらの作品を撮影して作られた、同様の自家装丁本も収められていた。(展覧会図録 p.52 )

 う〜〜む。見てみたいものだが……。

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■レイヨグラフはどうやって生みだされたのか
 1921年から22年頃のことである。暗室で作業中のマン・レイは、すでに現像液に浸していた印画紙の上にガラス製の物体をいくつか置いた。天井にぶらさがっている電球をつけると、彼は次のような光景を目の当たりにした。「眼前でひとつの像が形成されはじめた。それはまともな写真におけるような物体の単純なシルエットではまったくなくて、形が歪み、印画紙と多かれ少なかれ接触しているガラスのために光が屈折し、黒い地(光が直接当たった部分)から浮き出しているものだった」(『セルフ・ポートレイト』p.176-177)。
 マン・レイはこのようにしてできた作品を「レイヨグラフ」と名づけた。カメラを用いずに、印画紙に直接物体を置いて感光させるという技法は、従来「フォトグラム」と呼ばれており、19世紀に写真が発明された頃から存在している。この技法を最初に用いたのはウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットとされており、タルボットの「フォトジェニック・ドローイング」は、葉や布地の切れ端などを印画紙の上に置き、それを日光にさらすことによって制作されたものである。(展覧会図録 p.92 )

 それで、いったいどうしてマン・レイは印画紙の上にガラス製の物体を置いてみようと思い立ったのだろうか? そこのところが知りたいのだが……。やはり『セルフ・ポートレイト』読むか。

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■《黒と白》マン・レイの緻密な作業
 今回、(黒と白の)プリントを作成するにあたって、マン・レイの複雑で精密な写真技法がより明確になったことは興味深い。マン・レイは、まず、ガラス乾板に露光させた像を、約4倍に拡大してポジフィルムを作成した。そのフィルムに修正(リタッチング)を加え、陰影やモデルの鼻梁の線を強調し、さらには紙の束を消去した。次に、この修正済みのポジフィルムを別のフィルムに密着印画することによって、ネガフィルムを作ったのである。このようにして作られた2枚の、ポジとネガのフィルムを印画紙に焼き付ける。出来上がった2枚の作品は左右が反転した鏡像になるために、お互いが呼応し合っているような図柄になっている。また、対照的な色調(白い顔/黒い仮面、黒い顔/白い仮面)は、まさに《黒と白》の美しい対比の効果を生み出している。(展覧会図録 p.106-107 )

 う〜〜む、そこまでやっていたのか。

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■カラー写真の研究
 カラー写真を制作するにあたってマン・レイが直面した問題は、プリントに焼くと色彩が鈍くなったり、変化したりすることであった。そこで彼はさまざまな実験を行ない、その結果、オリジナルの色調を保つ方法を発見した。それはポジフィルムの裏一面に、ある化学溶液を塗るというものである。マン・レイ自身の言葉によれば、こうして出来上がった写真は「色彩の輝度を保持しつつ、絵のような質も付け加わっていた」(『セルフ・ポートレイト』p.531) (展覧会図録 p.208 )

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■のぞき趣味
 長年にわたってマン・レイを魅了した主題である、眼と窃視趣味もまた、さまざまな作品に登場する。本展に出品された《のぞき》(cat.nos.353,354)は、秘密を垣間見させようと、私たちを誘うのぞき穴のある箱だ。反対に、《ジュリエット(オブジェ=トピック)》(cat.no.355)や《オプティック=トピック》(cat.no.356)は、眼の上をぴったりと覆う作品で、これを着用した人の視界は妨げられる。(展覧会図録 p.244 )

 確かに意味深な穴があれば覗きたくなるのは、人間の本能と言っていいのかもしれません。覗いても何も見えるはずがないのに、展示ケースの中の、こののぞき穴を見た私が思わず覗こうとしてしまったことは内緒です。

マン・レイ作《のぞき》ののぞき穴の部分
マン・レイ作 《のぞき》部分 1970年代 ミクスト・メディア

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■マン・レイとデュシャン
 今回のマン・レイ展は英語で Unconcerned But Not Indifferent(無頓着、しかし無関心ではなく)と題されている。これは、マン・レイの墓碑銘にも刻まれている彼自身の言葉である。墓碑銘としてこの言葉を選んだのは、生涯の伴侶であったジュリエット・マン・レイであるとされており、まさにマン・レイの生涯と芸術を表現するのにふさわしい言葉と言えるだろう。

 一方、これに関連して思い出されるのが、マルセル・デュシャンの「無関心の美」という言葉である。こちらのほうは、デュシャンのメモの複製を収めた、いわゆる《グリーン・ボックス》に登場し、「精密絵画、もしくは無関心の美」と続く。

 デュシャンにおける「無関心の美」は、デュシャンの芸術の純粋に美学的で非個人的な—言わば、「無私の」、また匿名の—性格をよく表現している。一方でマン・レイは、—それを知ってか知らずか—このデュシャン的な美の範疇を軽々と否定して、屈託のない喜びを展示するのである。そこには、デュシャンのストイシズムに対するマン・レイの快楽主義という根本的な差異が浮び上がるだろう。マン・レイもデュシャンも、それは十分に認識していたことであったに違いない。(展覧会図録 p.285 )

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マン・レイ展/展覧会レビュー

■ご注意
本資料は、2010年7月14日(水)〜9月13日(月)、国立新美術館で開催された「マン・レイ展」の展覧会図録の要点を書き出したものです。

グレー文字部分は、図録の記述および展覧会についての筆者の個人的感想です。

2010年9月20日(月)
文責:NPO法人公共情報センター・福地敏治
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