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ドガ エトワール 初来日 横浜美術館「ドガ展」パステル画の最高傑作エトワールが初来日。見逃せません。

『ドガ展』についてのまとめ
2010年9月18日(土)〜12月31日(金)/ 横浜美術館

コンテンツ

■私は有名かつ無名になりたい〜ドガの言葉
 ドガの作品にアプローチしようという者なら誰でも、画家自身の言葉を考慮せねばならない。しばしばその逆説的な性質の陰に、ドガが奇抜な表現で自分自身をさらけ出していると感じさせる、あの言い回しである。

 「私は有名かつ無名になりたい」
 「私の芸術以上に自発的でないものなどない」
 「デッサンとは、描き手が見るもののことではない、他者に見えるようにすべきもののことである」
 「ああジョットよ! 我にパリを見せ給え! パリよ、我にジョットを見せ給え!」
 「優美は凡庸に在り」
 「現実とは何か? 現実、それは私が求めるもの、それは私が想うところのもの」。

 いずれも簡単には意味を取らせない警句であり、我々にはきわめてなじみ深い彼の芸術に、奥行きを、さらにいえば複雑さを与えている。しかも画家自身がある時、物書きたちとその解釈を警戒して、あらゆる解読の試みをあらかじめ封じるような発言をしているのだ。曰く「誰にも解説などできない」。(展覧会図録 p.8 )

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■ドガが描くもの〜ありふれた主題の独創的な場面
 ドガが、同時代の芸術に数多くの革新をもたらしたことは明らかだ。まず思い浮かぶのが、主題についてである。(中略)実際ドガは、同時代人たちの注意深い観察者としてたちまちのうちに頭角を現し、彼らの容貌、衣服、背景を観察して迫真的に暴いた。ドガが当時の著名人たちの肖像を描くということは、彼らの身近な者たち、家族、友人、仲間についても熱心に研究することを意味した。ドガはまた我々を易々とショービジネスの世界にも誘い、舞台の上の踊り子、歌手、楽士たちの姿を見せてくれる。わけても独創的なのは、舞台裏やリハーサルや休憩時の、それぞれがいかにもリアルな姿勢やポーズを取っている、集団としての彼らを描いていることである。(展覧会図録 p.8 )

 その他の主題、たとえば競馬や浴女を描くときも、ドガはいままでの画家とは異なる場面をとらえ、描きだしました。

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■我々は自分が見たいように見る〜ドガにとってのリアリティ
 写実のための写実などには、ドガはほとんど関心がなかった。写実は、それ自体は目的ではないのだ。「我々は、自分が見たいように見る」、彼はこう断言しているし、ダニエル・アレヴィも次のように証言している。「ドガが探求したのは、現実のための現実ではない! ああ、何と馬鹿げたことだろう。この『現実』という言葉に対する彼の反応に耳を傾けてみようではないか。『現実とは何か? 現実、それは私が求めるもの、それは私が想うところのもの』」。言い方を変えるならば、ドガにとって、現実を賞賛することは、個性を放棄することをまったく意味しなかった。確かに絵画において、ここまで強烈なリアリティは、ドガ以前に存在しなかった。(展覧会図録 p.9 )

 展覧会レビューをご参照ください。

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■ドガが育った環境〜ドガの父
 ドガの父親は、セクト主義的なところも教条主義的なところもない、好奇心に満ちた、柔軟な精神の持ち主だった。彼はしかも「きわめて穏やかで品がよく、稀に見る善良さを持ち、機知に富み、そして何より音楽と絵画を愛する男」として人々の記憶に留められることになる人物である。したがって、文化的な雰囲気よりも家庭環境の方が、ドガに、ある種の精神的自立のための条件をもたらしたといえる。(展覧会図録 p.11 )

 ドガの周囲にはこの父をはじめ、ギュスターブ・モローやマネ、印象派の仲間たちなど、常に親しい人々がいたらしい。

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■絵画ジャンルの混淆、消滅、破壊
 1868年のサロンに、ドガは、特異な絵を出品した。その《 E.F. 嬢の肖像、バレエ「泉」をめぐって》(サロンの小冊子に掲載された題名)は実際、分類の難しい作品である。唯一そのタイトルだけが、ジャンルの混淆を説明してくれる。つまりここには、肖像(ウジェニー・フィオクル)とバレエの舞台が同時に描かれているのである。しかし、モデルの女性は、他の人物たち以上の重要性をほとんど与えられていない。バレエについても、ドガが描いたのは、奇妙にも休憩時間の情景であった。そして背景は、いかにも自然の断片のように見え、本物の(その点ではいささか突飛な)馬がいることによって、その印象は強まっている。「完全な肖像画でもなければオリエンタリスム(東洋趣味)の絵でもなく、舞台の場面でも歴史画でもない」とアンリ・ロワレットが適切に評したこの絵によって、ジャンルの混淆は、ジャンルの消滅にまで推し進められたのだった。(中略)

ドガは、ジャンルのヒエラルキーを覆した(例えば、農夫に古代の英雄さながらの尊厳を与えるといったことをしている)だけではない。それをはるかに凌駕することをなし遂げた。つまり、ジャンルの概念そのものを破壊したのである。この侵犯行為——これは今日の我々にとってはなじみ深いものだ——は、本質的な重要性をもっていた。ドガは、現行の視覚原理を疑い、定められたコースや陳腐化したフォルムや社会通念を越えたところへ、危険も顧みずに踏み込んで行った。かくして、どうみても互いに矛盾した複数の目標を融合することに成功したのである。「自然主義運動を(…)偉大なる流派に匹敵するもの」にする、これがドガの美学上の野心であった。これは例えば、「凡庸を巧みに描写する」ことを目指したフロベールの野心にも比することができるだろう。(展覧会図録 p.14 )

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■ドガのまなざし〜彼が見ようとしていたもの
 ドガが手帳に書き付けたアトリエの構想は示唆的である。「アトリエの構想/対象を下からも上からもデッサンすることに慣れるよう、部屋の周囲に階段席を設置すること/見かけにとらわれすぎないよう、鏡に映った対象のみを描かせるようにすること/肖像画については、フォルムや表情を記憶する習慣をつけさせ、見たままをすぐにデッサンしたり油彩で描いたりしないように、モデルに1階でポーズさせて制作は2階でやらせること」。ここでドガが重要視しているのは、自由なまなざしによって、言い換えれば、より自然で客観的なアプローチによって保証される距離をいかに作りだすかということである。画家のジャック=エミール・ブランシェは、そのことを看破している。「民法典、アンリ・ベール[スタンダールのこと]、そしてドガのデッサンの、余分なものを削ぎ落としたスタイルには、類似性があるように思われる」。実際ドガは、何とも驚くべきことに、感情の欠如した状態を追求していた。そのことは、アルセーヌ・アレクサンドルが個人的に証言している通りである。「感情も必要ない——彼自身が私にそう断言したからには、そのことを認め、その意味を考えなければなるまい。かくも偉大な境地に到達した、唯一無比にして特異なこの鬼才はいったい何者なのか? ——『あなたは制作している時、心を動かされることはないのですか?』——『まったくないね』。ドガは、独特のアイロニカルな重々しさでこう答えた。『デッサンしているかタブローを描いているか、それだけだ』」。ドガの絶対的かつ至高の視点は、まさしくこの中立性によって確立した。彼のまなざしは、対象の上を浮遊すること(あるいは対象をどんな角度からでも捉えること)ができた。つまるところ、彼にとっては、描くという作業こそが最も重要だったのである。(展覧会図録 p.15 )

 ここに書かれているドガの言葉をそのまま鵜呑みにすることはできません。『——心を動かされることはないのですか?』——『まったくないね』。まぁ、この答えはドガがちょっとカッコつけただけでしょう。おそらくそうなりたいという願望は強く持っていたのだと思います。

 結局この頃(《トキと若い女》を描いた頃、つまり1860〜62年)のドガは、芸術至上主義者にごく接近していたのである。クールベを筆頭とした写実の信奉者たちとも、大衆の嗜好にへつらう者たちとも距離を置いていた(注)。ドガは、真実への関心と、気品あるフォルムの追求に折り合いを見出そうと努力した。その道は険しく困難であり、その中間に道筋をつけるだけでもドガは20年近くを要した。この客観性、あるいはまさしく貴族的なこの距離感こそ、ドガが《アマチュア騎手のレース—出走前》や《田舎の競馬場で》、さらには数多くの肖像画において試みたものであった。そこに描かれたモデルには、画家との親密な関係が感じられない。それゆえ、ファン・ゴッホが、1888年にエミール・ベルナールに宛てた手紙で、ドガの作品を「よそよそしい」と評したのも納得できることである。

【注】
「こぎれいなものがちやほやされていた。自然は飾り立てねばならないと信じる画派、嘘をつかねば芸術ではないと信じる画派は常に存在するし、今後も存在するのだ」と1860年代を回顧して、エドモン・バジールが嘆いている(Edomond Bazire, Manet, Paris, 1884. p.44)
(展覧会図録 p.35)

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■ドガと日本美術〜日本美術との出会い
 当時のパリで、誰がいつ最初に日本美術を見出したのかについては諸説ある。1856年にブラックモンが刷り師ドラートルの仕事場で日本から届いた食器の包装紙の中に『北斎漫画』の画帖を見出したと伝えられ、開港以前からオランダ経由で日本の美術品はパリへもたらされていたと思われるが、多くの人の目に日本美術が触れるようになったのは、通商が始まった1859年以降と考えるべきだろう。

 中でも1862年は、ヨーロッパで日本美術が広く知れ渡る節目の年となった。4月には、日本の文久遣欧使節団がパリに滞在し、髷を結い刀を携えた侍たちがナダールの写真店で記念撮影をしたことがパリの人々の話題となった。5月にはロンドンで万国博覧会が開催されラザフォード・オールコック収集の日本美術品が展示された。さらに E. ドゥゾワがリヴォリ街220番地に日本の骨董品店を開店し、ゴンクール兄弟をはじめ、文学者や画家たち、そして社交界の人々が出入りして、日本美術は一気に熱狂的なブームとしてフランス中に広まった。

 おそらく、ドガも1860年代の中頃には日本美術と出会っていたと思われる。ドゥゾワの店の常連には、彼の親しい友人であったマネ、ティソ、ホイッスラー、ブラックモンらがいた。また、ドガの作品の収集家であったミッシェル・マンジやドガ作品を扱った画商アルフォンス・ポルティエは、有名な浮世絵のコレクターでもあり、彼らのもとで何百という数の浮世絵を身近に見ることができたのだと考えられている。(展覧会図録 p.18 )

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■ドガと日本美術〜日本美術の収集
 ドガが日本美術へ深い関心をもっていたことは、何よりもドガ自身が日本美術を収集していたことから明らかである。ドガは晩年、美術品の収集に熱中し、約500点の絵画と5000点以上の版画が集められたヴィクトル・マッセ街のアパルトマンの2階は、まるで美術館のようだったといわれる。アングル、ドラクロワなどドガが敬愛した巨匠たちやドーミエ、カヴァルニの風俗版画、さらに、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、カサットなど仲間の印象派の画家たちの作品も数多く収集していた。

 ドガのコレクションの概要は没後の売立て目録から知ることができるが、その中には、日本美術の作品群も含まれており、鳥居清長、喜多川歌麿、歌川広重をはじめ、渓斎英泉、歌川豊国、葛飾北斎などの浮世絵100点余りが記録されている。中でも広重の名前のもとにまとめられた風景版画は42点、花鳥などの肉筆画15点と、突出して多い。(展覧会図録 p.18)

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■ドガと日本美術〜浮世絵を巡るエピソード
 (ドガが所有していたコレクションの中でも鳥居)清長の《女湯》は、ドガのお気に入りだったらしく、晩年にいたるまで、アングル、コロー、マネ、ヴァラドンの作品とともに寝室のベッドの上に飾っていたと伝えられている。

 ドガの浮世絵収集について当時から広く知られていたことは、ある美術愛好家が、ドガの家を訪ねる時に、アングルの素描を差し出すと家の居間に通され、浮世絵版画を差し出すとアトリエに入ることが許されたというエピソードからも推察される。(展覧会図録 p.19 )

 ドガ、意外とちゃっかりしているではないか!

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■ドガと日本美術〜作品への影響
 団扇を持ったカミュ夫人の肖像(1869-70年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)や壁に日本の風俗画が掛けられたアトリエにいるジェームズ・ティソの肖像(1868年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク)など、当代のジャポニザンの肖像画は、ドガと日本趣味の関係を直接的に示す数少ない作例である。

 ドガは、日本的なモティーフとして扇には、格別の関心をもっていたようである。稽古場や楽屋で休む踊り子たちやオペラ座の桟敷で舞台を見つめる女性が、日本の扇を優雅に広げる様子がしばしば描かれている。ドガは画面形式としても、扇面型画面の作品を取り入れている。ドガは、生涯で25点ほどの扇面画を制作したが、そのうちの19点が1878年から80年にかけて制作された。1879年の第4回印象派展では、ドガの提唱によって、扇面画だけの展示室が設けられ、ドガ自身5点の扇面画を出品した。ドガの他にも、ジャン=ルイ・フォランが4点、カミーユ・ピサロが12点の扇面画を出品した。(展覧会図録 p.20 )

 扇面画以外では、極端に縦長のフォーマットの版画《ルーヴル美術館のメアリー・カサット、絵画室》が直接的に日本趣味を反映した作例として挙げられる。その極端に縦長の判型は従来の西洋版画には見られないものであり、柱絵つまり柱に掛ける細長い判型の浮世絵を模したと思われるのである。また、二人の人物の配置や立ち姿の人物のS字形のラインも浮世絵の影響が指摘される。(展覧会図録 p.21 )

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■ドガと日本美術〜主題への影響
 ボードレールの「現代生活の画家」に共鳴し、都市に生きる人々の真実の姿を表現しようとしたドガは、バレエの踊り子や洗濯女、帽子屋の女、湯浴みする女などを主題として取り上げ、彼らの自然な姿を追及した。アカデミックな西洋絵画の伝統から逸脱したそのような主題は、ガヴァルニやドーミエら諷刺画に先例を見出すことができる。事実ドガは、この二人の画家の作品を数多く収集しており、直接的に参照したことも明らかである。

 しかし、それ以上に日本の浮世絵版画は、新しい主題についてドガのイマジネーションを書き立てたのではないかと推察される。浮世絵版画は、単なる風俗の記録や風刺ではなく、市井の女性たちの日常生活の中の美が主題となっているからである。

 ドガが所蔵していた西川祐信の墨摺の絵本『百人女郎品定』は、さまざまな身分や職業の女性たちの風俗百種の絵を二巻本にまとめたものである。舞子や洗濯女、仕立屋、髪結いなどドガが描いたのと同じような職業の女性たちが登場する。ドガは手元でページをめくりながら、絵の構想を練ったこともあっただろう。

 中でも、1880年代以降、「踊り子」と並んで主要な画題となった「浴女」は、浮世絵との関連性を示している。 (展覧会図録 p.21 )

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■ドガと日本美術〜表現法
 ドガは、モティーフを画面の縁で裁ち落とす手法を、かなり早い時期から使っていた。1862年に制作された《アマチュア騎手のレース−出走前》でも、画面右端の馬と騎手が、画面の縁で裁ち落とされ、そのため右方向への動きが強調される。(中略)

 ドガのこのような表現は、同時代人の人々には写真よりもむしろ浮世絵を想起させたようである。作家で批評家でもあったジョリス=カルル・ユイスマンは、モティーフが画面の縁で裁ち落とされたドガの作品について、「浮世絵のようだ」と評している。実際、歌川広重の「名所江戸百景」(1856−58年)には、この裁ち落としの手法が随所に取り込まれている。 (展覧会図録 p.23 )

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■ドガと日本美術〜まとめ
 日本の美術が19世紀後半の西洋の画家たちに大きな影響を与え、近代絵画の展開の中で、大きな役割を果たしたことは、今日広く認められていることである。マネは墨画のような即興的な筆さばきと平面性に、モネは大胆な構図や平面性に、ゴッホは浮世絵の鮮やかで平滑な色彩にインスピレーションを得た。そしてドガもまた、その作品の創造の過程で日本美術を参照していたことは明らかである。

 ドガが生涯を通して描いた同時代の都会の女性たちのさまざまな姿、つまり踊り子や洗濯女、都会の生活を楽しむ女性たち、そして入浴する女性という主題は、浮世絵の中では、よく親しまれた画題であり、ドガはそれらのイメージからインスピレーションを受けたと思われる。また、近代生活のスピード感を表現し、スナップショットのような偶然性を画面に留めるために、画面の縁でモティーフを裁ち落とす手法や、多視点の空間表現を導入するが、そこにもまた浮世絵版画の影響を見て取ることができた。

 しかし、ドガの作品からは微かにしか日本趣味やその影響を見て取ることができない。ドガと日本美術の比較研究において、「ドガが影響を受けた作品の痕跡を巧妙に隠すため、曖昧さをぬぐい去れない」という指摘があるのも事実である。そのような印象を受けるのは、ドガが日本美術を参照しつつも、日本趣味や模倣や引用に終わるのではなく、それを西洋美術の文脈の中に置き直して消化しているからだろう。彼が目指したのは、あくまでもパリの近代生活のありのままを描くというレアリスムであり、そのためには日本を強く感じさせる要素は不要だったのである。(展覧会図録 p.25 )

 確かにドガの絵から日本文化の影響を感じることはほとんどない。だが、彼が印象派グループの一員だったことを考えれば、影響を受けていない方が不自然である。しかし、その影響の受け方もきわめてドガ的である。

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■ドガとポール・デュラン=リュエルの出会い
 1855年のパリ万国博覧会。当時24歳であったポール・デュラン=リュエルは、そこに出品されたドラクロワの作品にひときわ衝撃を受けた。自分が認める画家の仕事の擁護者となることを心に決めたのは、それがきっかけであった。画商は回想録でこう回顧している。「……アカデミックな芸術に対する生きた芸術の勝利だった。ドラクロワの作品が決定的に私の目を開かせ、そして、この私でも、世の人々が真の芸術家をもっと理解し、愛するようになるため力を尽くせば、自分なりに、いくらかでも彼らの助けになれるだろうという思いを深めてくれた……」。ドラクロワの仕事、とりわけ1859年のサロン(官展)での作品にはドガも魅了されている。当時ドガは25歳で、イタリアから帰国したばかりだった。アングルと並んで、ドガがことに賛嘆したのがドラクロワの作品である。

 ポール・デュラン=リュエルは、父親のかたわらで働いた後、テオドール・ルソー、ドービニー、コローなどのバルビゾン派の画家に関心をもち、続いて印象派を発見した。彼がドガの作品を見いだしたのは、1870年の普仏戦争の前に開かれたサロンにおいてである。ドガ自身と会ったのは、普仏戦争とパリ・コミューンの騒乱を避け、ロンドンに避難した画商がパリに戻ってからのことだった。ポール・デュラン=リュエルは回想録でこう回顧する。「私はドガとも交際するようになったが、(…)それまで彼の作品で売れたのは2、3のあまり価値のないものだけだった。そこで彼はパステル画や油彩画の連作を私の手に委ねたのだが、当時はさして関心も呼ばず、ずいぶん手頃な値段だったのに、買い手がつくまで何年も大変な思いをした」。(展覧会図録 p.28)

 印象派の画家たちにとって、このポール・デュラン=リュエルの存在は非常に大きい。

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■ル・ペルティエ街は不吉だ〜ポール・デュラン=リュエルの支援
 最初は経済的に余裕のあったドガも、後に困窮すると、ためらいもなく画商に金を無心した。ポール・デュラン=リュエルの月々の経済援助——画家たちの必需品の代金を業者に、また画家たちの家族の治療費を医師に直接支払うこともあった——は、ドガや他の印象派の画家たちにとって必要欠くべからざるものであった。実際、デュラン=リュエルは、彼ら(印象派の画家たち)の作品を買い取る数少ない人間の一人だったのだ。(中略)

 彼ら(印象派)の最初の展覧会は、1874年にナダールのスタジオで開かれ、その際「印象派」という名称がこのグループにつけられた。その後1876年に第2回展がデュラン=リュエルの画廊で開催されるが、そのことで画商は愚か者扱いをされている。「ル・ペルティエ街は不吉だ。オペラ座の火事に次いで、新たな災厄がこの地区を襲った。デュラン=リュエルの画廊で、彼らが絵と称するものの展覧会が開催されたのだ。(…)女一人を含む5・6人の狂人が、野心に取り憑かれた惨めなグループを結成し、作品を展示しようとこの通りに集まったのだ。(…)木々は紫色ではなく、空はバターのようなトーンではなく、彼が描いているものなどどこの国にもないことをピサロ氏にわからせなければならない……」。ドガはこの展覧会に22点出品した。

 印象派と印象派を支援する画商に対する執拗な攻撃にもめげず、ポール・デュラン=リュエルははやくも1885年11月5日の『レヴェヌマン』誌にこう書いている。「……ドガ、ピュヴィ・ド・シャバンヌ、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーの作品は、最高のコレクションに加える価値があると私は思っている……」。

 ポール・デュラン=リュエルは、印象派の画家たちの仕事の価値を信じ、20年近くわたって彼らを擁護し続けた。画商は2度の財政難(1870年代と1880年代)の後、1886年、アメリカ美術教会会長ジェームズ・サットンにニューヨークで展覧会を開くよう招待される。(展覧会図録 p.29 )

 ポール・デュラン=リュエル自身が、印象派の作品に惚れ込んでいたのだろう。商売になるならないの問題ばかりを考えていたのなら、財政難に陥りながら20年近くもがんばることはできない。

 疑問がひとつ。〈(ドガが)ためらいもなく画商に金を無心した〉という記述が見られるが、それほどずうずうしい奴は世の中にあまりいない。この点はもう少し慎重に考察すべきと思う。

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■頑固で気難しいドガ
 1880年代、デュラン=リュエルは画商としてドガと専属契約結び、作品を展示すべく骨を折ったが、ドガを説得するのはなかなか難しかった。1903年の一例を挙げよう。この頃画商はドガの作品をウィーン分離派展に送った。しかし頑固で気難しいドガは、画商が既に分離派と契約を交わしていたにもかかわらず、自分の作品がそこに展示されるのを嫌がった。そこで画商の息子ジョルジュ・デュラン=リュエルは、1902年12月18日、分離派会長ベルナツィーク氏に宛てて書簡を送り、こう述べている。(ことわりの書簡、略)(展覧会図録 p.30 )

 ドガは頑固で気難しいとされている。このエピソードもその一例として紹介されている。しかし、芸術家に限らず優れた人物はどこかに必ず頑固な部分を持ち合わせている。それを考慮に入れていろいろな事実を見ていくと、とりわけドガが頑固で気難しい人物だったとは思えないのだが……。

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■ポール・デュラン=リュエルの人となり
 画商(ポール・デュラン=リュエル)の忍耐力と熱意は一貫し、揺らぐことはなかった。「彼の」画家たちと交わした手紙、特にクロード・モネに宛てた手紙はその証言と言えよう。「1883年6月11日、パリにて。……あなたは本当に傷つきやすいのですね。あなたが困っていたら、必ず手をさしのべるし、私を当てにしていいですよ……」。さらに1884年5月15日の手紙「襲いかかってくるさまざまな不幸に耐えるには忍耐と勇気が必要でしょうが、追求すべきものがあるのなら、決してへこたれてはならないのです……」。

 デュラン=リュエルの人となりは、画商をよく知る美術批評家アルセーヌ・アレクサンドルが、1911年にベルリンの雑誌『パン』に掲載された記事でこう述べている通りだ。「何よりも彼は気取りがない。パリの名士の中でも彼ほど愛すべき人はいない。望む者はいつでも彼と会える。……物腰は穏やかで礼儀正しい……」。画商の気さくであたたかいもてなしぶりについては、ドガも、マダム・ド・クレルモンに宛てた1892年11月15日の手紙で認めている。「……ラフィット通り16番地の扉を開けるには、何のコツもいりません。ノックなしでお入りください……」。デュラン=リュエル画廊で開かれた、ドガのパステル風景画展の時の話である。画廊は、1871年から79年および1891年から1924年にはラフィット通りにあった。(展覧会図録 p.31)

 ポール・デュラン=リュエル。やはりただ者ではないな。

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■ドガのユーモア〜ポール・デュラン=リュエルとの親交
 ドガとデュラン=リュエルは二人ともパリで暮らし、アトリエや画廊でよく顔を合わせていたため、手紙を交わす機会はほとんどなかった。ドガが手紙を書いたのは、金策にひどく追われた時だけである。こうした金の無心の手紙には、1899年5月の2通が示しているように、ユーモアが混じることもあった。

 「1899年5月16日、パリにて。……生活に余分な金は足りたので、次は生活費を用立ててくれませんか。明日の朝、500フラン送っていただければありがたい」。

 「1899年5月28日、パリにて。……今回は私の分です。つまり、生活に余分なお金の前に、生活費が必要なのです。明日の朝、500フラン送っていただきたいのだが」。

 両人の関係が「公認のものとなった」のは、ポール・デュラン=リュエルがドガに、娘たちの結婚式の立会人となるように頼んだ時だった。マリー=テレーズは1893年5月23日、ジャンヌ=マリーは同年9月15日が結婚式で、彼は画家ピュヴィ・ド・シャバンヌとともにそれに立ち会った。(展覧会図録 p.31 )

 ドガとデュラン=リュエルの間には、ビジネス上の特別な契約が成立していた可能性があるな。前にも似たようなことを書いたが、人から金を借りるのにこんなふざけた手紙を送る奴はいない。もっとも文章が省略されているので、はっきりとはわからないが……。

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■自分が死んだ後でなければわからない〜ドガの死
 1917年9月27日にドガが死去した後、当時87歳だったポール・デュラン=リュエルの息子ジョゼフ・デュラン=リュエルと画商アンブロワーズ・ヴォラールにより、画家のアトリエに残された作品の目録が作成された。その時、ジョゼフ・デュラン=リュエルは、画家のパリのアトリエで見出したものに深い「印象」を受け、ニューヨークにいた弟ジョルジュ・デュラン=リュエルに宛てた1918年1月22日の手紙にこう書いている。「……ドガの作品目録がやっと完成した。油彩画、パステル画、デッサンが大量にある。生涯を通じてどれほど自分が働いてきたか、自分が死んだ後でなければわからないよ、とドガはいつも口にしていたね……」。この目録作成に続いて、1918年と19年に、ドガのアトリエ作品の売却が4度なされた。(展覧会図録 p.32 )

 「自分が死んだ後でなければわからない」。確かにそうかもしれない。

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■借金まみれで息絶えていたことだろう〜ポール・デュラン=リュエルの死
 (ドガの死の)数年後、89歳のポール・デュラン=リュエルはしみじみこう書き綴っている。「……1830年の巨匠たちが勝利したように、最後には印象派の巨匠たちも勝利したのだ。私の狂気じみた情熱は賢明だったのである。もし私が60歳で死んでいたら、世に認められない宝物に囲まれながら、返済できない借金まみれで息絶えていたことだろう……」。

 1870年から没年の1922年までに、ポール・デュラン=リュエルはパリでおよそ200の展覧会を、ニューヨークでは130近くの展覧会を開催した。最も実り多かった1891年から1922年までに、デュラン=リュエルは12,000点近くの絵を購入した。そのうち、1000点以上がモネ、およそ1,500点がルノワール、400点以上がドガ、シスレーも同数、約800点がピサロ、200点近くがマネ、400点近くがメアリー・カサットの作品だった。 (展覧会図録 p.32 )

 優れたアーティスト、優れた作品を世に送り出すために、ギャラリストの果たす役割は重要だ。さて、日本にはそのような役割を果たしているギャラリストはどのくらいいるのだろうか?

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■ドガの署名について(本名:イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガス)←?
 ドガは初期の作品には「De Gas(ド・ガス)」と署名したが、やがて貴族的な「De(ド)」の響きを嫌い、「Degas(ドガ)」に変えたといわれている。現在、ドガの祖父、父、弟など一族の名字については諸説あり「De Gas」「Degas」などの表記が統一されていない。(展覧会図録 p.35 )

 普通は、平凡な名前から貴族的な名前に変えたがるものだと思うのだが…。特に父親との確執があったわけでもなし。なぜ、ドガは貴族的な名前が嫌だったんだろうか。

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■ダンディーな芸術家
 上流階級に生まれたドガは、当時の多くの芸術家たちのようなボヘミアンではなく、むしろダンディーな芸術家であり、そんな彼が競馬という主題に無関心でいるはずはなかった。このような点において、ドガはボードレールが「現代社会への鋭い感性と徹底したレアリスムへのこだわり」と定義した「現代生活の画家」であった。(展覧会図録 p.51 )

 なるほど……。前項の疑問の答えが見つかった。ドガはボヘミアンな画家仲間(たとえば印象派の仲間たち)の手前、貴族的な名前をもっていることが都合悪かったんだな。不良仲間に入った優等生が、無理して悪ぶってみせるようなものだな。

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■実験と革新の時代
 印象派展という発表の場を得たドガは、この時期に西洋美術の概念を覆すようなさまざまな実験に取り組んだ。オペラ座の舞台裏や練習場の踊り子たちの何気ない仕種や、カフェ・コンセールで歌う歌手の迫真的な表情、重労働に倦んだ洗濯女の様子など、都市で生きる人々の真実の姿というそれまでの西洋絵画にはなかった主題を取り上げた。また、ルネサンス以来の遠近法に挑戦するような多視点の遠近法やクローズアップ、画面のトリミングによるモティーフの断ち落としなどの手法を使って、活気に満ちた近代都市の一瞬の表情を巧みに捉えた。そこには日本の浮世絵や写真の影響も指摘されている。さらに、モノタイプとパステルを併用するなど新しい技法的実験を繰り返し、近代美術への道を大きく切り開いた。ドガは彫刻も表現の手段として取り組み、1881年の第6回印象派展に出品した《14歳の小さな踊り子》では、西洋彫刻の概念を覆すようなレアリスムによって、センセーションを巻き起こした。
(展覧会図録 p.73 )

 《14歳の小さな踊り子》は人毛でつくられたかつらをつけ、顔の一部は彩色され、衣裳や靴も身につけていたらしい。展示されていたのはドガの没後に鋳造されたブロンズ製のレプリカだが、本物はいったいどんな感じだったのだろうか。当時の評価は賛否両論あったらしいが……。

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■複製技術とドガ
 ドガは、オートゥイユの有名な製陶会社であるアヴィランド社の芸術監督を務めていた友人、版画家フェリックス・ブラックモンの勧めにより、同社において新たな複製技術を研究した。当時、陶器の加飾にはしばしばリトグラフによる転写紙が用いられた。1879年に経済的危機により一家の財産を失って以来、ドガは、扇面画や版画など装飾的な作品を「商品」として売ることに熱心だった。(展覧会図録 p.95 )

 ドガの版画作品はそれほど多くはない。そして摺枚数も非常に少ない。ドガは版画によって経済的な苦境を脱しようと考えたようだが、どうやらそのもくろみは失敗に終わったらしい。

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■視力の衰え〜晩年のドガ
 1880年代以降、ドガの眼の状態は次第に悪化していったが、彼は制作の手を休めることはなかった。彼は1870年代に試みたさまざまな実験の結果をもとに、さらに新しい展開を模索した。(中略)

 この時期の作品の多くはパステルで描かれたが、視力が衰えていったドガにとって、パステルは、多くの色数の中から必要な色を選び直接画面に彩色できるため、油彩画より扱いやすかったのだといわれる。また、パステルは発色がよく、重ね描きが可能であり、水彩など他の画材と併用できる。ドガは「私は線を用いる色彩画家だ」と述べているが、パステルは優れた素描家としての彼の力量を存分に発揮する上でも適した画材だったのである。(中略)

 ドガは早くから写真に関心をもっていたが、1895年頃には当時発売されたばかりのコダックの小型カメラを入手し、写真の撮影に夢中になった。その多くは友人たちをモデルに自ら演出して綿密に構図を計算したものである。ドガは、写真で撮影した裸婦や踊り子のイメージを絵画の素材として使っていたことも知られている。

 晩年のドガは、ほとんど作品を発表することはなかったが、彼の作品に対する評価は高まっていった。その一方で、もともと気むずかしい性格だった彼は世間との接触を絶ち、限られた友人たちと交流するだけだったという。長年住み慣れたヴィクトル・マッセ街のアトリエから転居した1912年以降は、ほとんど制作をやめてしまったといわれる。1917年にこの世を去るが、没後のアトリエからは、生涯発表することなく作り続けた150点ほどの蝋の塑像が見つかった。最晩年までドガの創造への情熱は衰えず、触覚をたよりに作り続けていたことを物語っていた。(展覧会図録 p.110 )

 非常に多くの芸術家が、老いてなお、その創造意欲を枯らすことなく創作を続けている。それは彼らが一流だからなのか、それとも何かを創り出す魅力がそうさせるのだろうか?

 没後にアトリエから見つかった150点ほどの蝋の塑像。普通だったらちょっとくらい誰かに見せたくなるだろうに、ドガって奴は本当に……。

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■ドガ礼賛〜ドガの遊び心
 1885年の夏、ディエップで友人のアレヴィのもとに滞在したドガは、バーンズという名の、貧しく才能の欠如したにわか写真家に手を貸そうという気を起こした。アレヴィやシッカート、ジャック・エミール・ブランシュといった友人たちの集団肖像写真の注文を取ってやり、なおかつドガ自身がその構図を決めてやったのである。かくしてドガは、第三者を介して間接的に《ドガ礼賛》という写真の作者となった。この写真を「プリ・コンセプチュアル」と評することも可能だろう。というのも、技術的にはお粗末でも、美学的には、ドガと師匠のアングルを結びつけた——この写真の構図は、アングルの《ホメロス礼賛》のパロディになっている——という点で、強固な象徴的意味をもっているからである。ドガもこの写真の出来に大いに満足し、友人たちに片っ端から焼き増しを送っている。(展覧会図録 p.172 )

 いろいろなエピソードを読めば読むほど、ドガが頑固で気難しいというのは「誤解」、という気がしてくるのだが……。

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■ドガの写真についての考え方
 ドガの写真についての考えを、姪のジャンヌ・フェブルは、次のように記している。

 叔父ドガは、写真というものの芸術性が極めて低いということも充分理解していました。——写真は機械的な眼でしかない。その最大の欠点は、対象を見分けることもできないし、まして理解することもできない。写真は心も趣味も持っていない。——と考えていました。(ジャンヌ・フェブル〈東珠樹訳〉「叔父ドガ」『ドガの想い出』美術公論社、1984年所収)
(展覧会図録 p.172 )

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ドガ展/展覧会レビュー

■ご注意
本資料は、2010年9月18日(土)〜12月31日(金)横浜美術館開催の「ドガ展」の展覧会図録の要点を書き出したものです。

グレー文字部分は、図録の記述および展覧会についての筆者の個人的感想です。

2010年9月23日(木)
文責:NPO法人公共情報センター・福地敏治
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