公共情報センター・オフィシャルショップ「物語屋」のバナー
眠られぬ夜のために ヒルティ 書籍 まとめ

『眠られぬ夜のために 第一部』についてのまとめ
緒言

コンテンツ

■有益な不眠とは
 不眠はつねに禍いであって、できるだけ除かねばならない。ただ例外は、その不眠が非常に大きな内的なよろこびから生じたとき(この場合、眠れないことがむしろ人生最大の喜びの一つである)、もしくは、日頃おこたりがちな自己反省の静かな、妨げられない時間を与えるために不眠が授けられた場合である。この後者の場合、不眠は内的生活のとくに大きな進歩をとげ、人生最上の宝を手にいれるために軽んじてはならない貴重な機会である。眠られぬ夜に、自分の生涯の決定的な洞察や決断を見出した人びとは、かぎりなく多い。

 このような見地から不眠の問題を考察しても、すこしもさしつかえあるまい。イスラエルの賢者、カヒナイの子ラビ・カニナは言っている、「夜、目をさましているときや、一人で道を歩いているときに、安逸な思いに心をゆだねる者は、おのれの魂に対して罪を犯している。」つまりその人は、精神上の大きな利益を手に入れるまたとない機会をとり逃がすばかりか、無益な思いがまねきやすい危険に身をさらすことになる、というのだ。

 だから、眠られぬ夜もなお「神の賜物」と見なすのが、つねに正しい態度であろう。それは活用さるべきものであって、むやみに逆らうべきではない。いいかえると、不眠にも何か目的がありうるし、またあるべきではないかと考えるがよい。それから、そういう時にこそ、ふだんよりもはっきり聞える、あの静かな声に耳を傾け、そして他の一切の考えをしりぞけるのが正しいであろう。「なぜこの不眠の夜が自分に訪れたのか」と、このように考えてみることが大きな祝福ともなりうる。このことについては、すでにヨブ記が明らかに、深い経験にもとづいて語っている。不眠のこのような目的を発見すれば、それと同時に、不眠そのものも治ることがある。つまり、それによって魂の平安が訪れ、それがさらに肉体的器官、とくに神経によい作用を及ぼすことになるのである。

 H. ロルムのいくらか厭世的だがきわめて美しい詩が、これと同じ思想をつぎのように歌っている。

「ただ胸に脈うつばかりで、
語られしことなき言葉によって、
うつつの夢の力によって、
夜の魔法のめがねによって、
眠りをうばわれし
暗く、しずかな夜は、
生きたるままわれらをすでに
この悪しき生から救い出す。」(p.9〜p.10 )

■ヨブ記 33の15-18
人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると
夢の中で、夜の幻の中で
神は人の耳を開き
懲らしめの言葉を封じ込められる。
人が行いを改め、誇りを抑え
こうして、その魂が滅亡を免れ
命が死の川を渡らずに住むようにされる。

|ページトップへ|

■どう考えるか、その方法
 不眠のときに、ただいたずらに自分の思いに身をゆだね、いわば自己という小舟を想念の波の流れにまかせるのはよくない。むしろ思念に対してその進むべき方向を命じなくてはならない。従って、まず第一に、自分自身を相手に語ってはならない。それはたいてい、不安を増すだけだからである。できるならば、つねにゆるがぬ平安を与えて下さる神と語るか、それとも、もしそういう人がいるならば、あなたを愛してくれる人たちと語りなさい。とりわけ、誠実な女のひとと話すのがよい。そういう人の言葉や手は、しばしば大きな慰めを与えるものである。

 そのような助けがえられないときに役立つのは、良い書物である、というよりむしろ、そういう書物のほんの短い一節でもよい。それが、思考に刺戟を与え、精神をほかの悩ましい物思いからそらして、正しい慰めの泉に向かわせる。こういう意味での最良の書物は、旧約の詩編、新約のなかのキリストの言葉、ヨブ記、プロテスタントの教会賛美歌のあるものなどである。そういう賛美歌で最も美しいものは(その全部がそうではないが)、たとえば同胞教会(ヘルンフート派)の賛美歌集のなかに含まれている。(p.11 )

 信仰を抜きにして考えても、「神と対話せよ」という指摘は正しい。人間は絶対に重要な決断をするときは、自分自身と対話してはいけない。それは私のような無信仰の人間にも当てはまる絶対の真理なのだ。

■ヨハネによる福音書 15-7
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

■ヨハネによる福音書 16-24
 今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

■ヨハネによる福音書 6-37
 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

■マタイによる福音書 29-31
 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて恐くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 「願いなさい、されば与えられん」という言葉は究極の真理である。ただし、ここで勘違いしてはいけないのは、願うとはどういうことか、ということだ。「願い」という言葉を「努力」と置き替えてみればこの言葉の真の意味はすぐわかる。「努力しなさい、されば与えられん」というわだ。

 でも、どんなに努力したって報われないこともあるじゃないか、という人は「マタイによる福音書 29-31」を読むといい。成功を疑い、努力することをやめた者が報われることは絶対にないのだ。

|ページトップへ|

■自然法則と病気について
 いわゆる「自然法則」なるものはともあれ一つの仮説にすぎず、その「立法者」なしには成り立ちえないものであろうが、そうした自然法則の背後には、その根底をなす倫理的世界秩序の法則がつねに必ず存するのである。これは、今日の自然科学者も、いずれふたたび承認しなければならないであろう。道徳的に正しくない生活からは決して健康が生まれることはできない。道徳的な治癒力とその作用とに頼らずにただ外的な治療法を用いるだけでは、たとえそれが最もすぐれた方法であっても、健康を維持したり回復したりできるものではない。われわれはみな多少とも「遺伝的負荷」を持っているが、しかし、正しい方法を用いれば、だれにも治癒の道が開かれている。そうすれば、全く不治の病人でも、少なくともその病苦をいちじるしく軽減することはできよう。

 個々の器官の病気の実に多くのものは、要するに、今日、神経過敏とか神経衰弱とか呼ばれている全般的な病弱の結果にほかならない。だから病根が癒ゆれば、それらの病気も全くひとりでに姿を消してしまう。だが、この病弱そのものは、肉体的治療法だけでは根絶することはできない。これにはつねに精神的要素の協力が必要である。(p.21〜22)

 100年以上前に書かれた文章であるにも関わらずこの文章は、現代医学の欠点を鋭く指摘している。医療は絶対に唯物主義に陥ってはいけない。

|ページトップへ|

■塔を建立したければ……
 塔を建立したければ、
 まず土台を掘らねばならぬ。
 土に種子を蒔いておかねば、
 とり入れの日は来ない。
 多年の経験を重ねた者のみが、
 シオンの希望について
 ひとに語りきかせることができる。
    (ツィンツェンドルフ)
    (p.26)

 こんなあたり前のことを我々は忘れがちである。

|ページトップへ|

■ご注意
本資料は、ヒルティ著『眠られない夜のために』岩波文庫版の要点を書き出したものです。

グレー文字部分は筆者の個人的感想です。

2010年10月3日(日)
文責:NPO法人公共情報センター・福地敏治
物語屋ホームへ
公共情報センター・オフィシャルショップ「物語屋」のバナー